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蜀の古道は蜀の都成都から、西安まで道が続いていました。
「金牛道」と当時は言われており、蜀の領土であった益州(現在の四川省)がその道
の大半を占めていました。
現在はすべて残っているわけではなく、龐統のお墓があるところや、剣門閣といった
場所にところどころ残っている程度です。
今回ご紹介する明月峡も金牛道の一部です。
目次
明月峡とは
明月峡は、蜀の桟道の一部で広元市の北23キロの嘉陵江東岸の絶壁に掘られた、蜀
(成都)から西安に入る唯一の交通要道です。春秋戦国時代から宋時代まで
建築と修復を繰り返し、数百キロにも及ぶ桟道を造りました。
清時代、清風明月にちなんで、この地を「明月峡」と改名しました。明月峡と呼ばれる古桟道の全長4kmです。
古桟道の歴史は古く、小説「項羽と劉邦」で有名な前漢の初代皇帝劉邦が、
項羽との戦の時、この道を使用し、軍需物資を前線まで運びました。
また、三国時代でも、この古桟道を何度も修復し、北伐の際、食料や物資を運びました。
広元市は、漢中まですぐのところに位置しているので、成都からの軍需物資の
運送には必ず通る道でした。
北伐の際も、諸葛亮は大軍を率いてこの桟道を通ったことでしょう。
現在の明月峡古桟道
明月峡古桟道はとても広く、全て周るのに3時間程度必要です。
僕は時間があまりなかったので、観光バスのようなミニバス?
のようなものを使い1時間程度観光しました。
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僕が通った道はかなり整備されていました。
![](https://lilo555.work/wp-content/uploads/2018/08/2018.8.25-1098-300x169.jpg)
ところどころこのような岩が突き出しているところもあります。
断崖絶壁に作られています。
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蜀ってほんと山や崖に囲まれていますね。
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川のすぐ横に道は作られています。
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お決まりの4輪車に乗る諸葛亮公明像。
![](https://lilo555.work/wp-content/uploads/2018/08/2018.8.25-1082-300x225.jpg)
![](https://lilo555.work/wp-content/uploads/2018/08/2018.8.25-1083-300x225.jpg)
諸葛亮像の後ろの壁には「後出師表」が書かれていました。
2枚目の写真はその一部です。
後出師表の原文は「軍在祁山﹑箕谷、皆多於賊~」と始めるのですが、
こちらの後水師表は「先帝慮漢﹑賊不両立~」から書かれています。
本物の蜀古桟道
実は今まで紹介してきた道は蜀古桟道ではないんです。
蜀古桟道の上に作られたいわば蜀新桟道のようなものです。
実際の明月峡の古桟道はこの道の下にあります。
![](https://lilo555.work/wp-content/uploads/2018/08/2018.8.25-1092-2-225x300.jpg)
わかりますかね。
新道のさらに下のに造られています。
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真ん中のあたりに細い道みたいのがあるのがわかりますか?
これが正真正銘の蜀古桟道です。
この古桟道は絶壁に長方形の穴を掘り、穴に差し込んだ棒に石板又は木の板を敷いて
できた道路です。この絶壁の岩はとても固いらしく、1つの穴を掘るに3日かかったそうです。
現在では、ダムや鉄道の建設、風化により、100km近くあった桟道はほとんど
なくなってしまいました。
しかし、ここ明月峡辺りに桟道の穴が400個近く残っていたため、写真のように
古桟道を復元できました。
昔は現代のような便利な道具はなかったので、かなりの時間と人間を使って
桟道は造られました。
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散策道の反対側に鉄道が通っていました。
実際に古桟道を復元した場所へ行ってみたかったのですが、
時間がなかったため、行くことができませんでした。
またの機会に行くことにし、再度ご紹介します。
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川にすごく近くて、歩いたら気持ちよさそうですね。。。歩きたかった。。。
おわりに
いかがでしたでしょうか。
蜀古道の一部、明月峡。
このような道が西安まで続いていました。
この先の漢中から西安にかけての道も両側を断崖絶壁に囲まれた
険しい道となっています。
古道を見ると益州がなぜ天然の要塞と言われたのか、三国の中で一番領土が
小さいにもかかわらず、何十年も守り続けることができたのか理解できます。
しかし、逆を言うと蜀国内からも進軍しにくいという難点もあるため、
諸葛亮が行った北伐は、兵士たちにとっては過酷な環境だったと思います。
次回明月峡を訪れたときは、実際に古桟道を歩いてみます。
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